2019年5月13日

時事用語―「瀬取り」

本記事では、近年、北朝鮮関連の報道でよく見かける「瀬取り」という用語の、適切なアラビア語訳について検討します。

まず結論から提示すると、以下のようになります。


عَمَلِيَّات النَّقْلِ مِنْ سَفِينَةٍ إِلَى سَفِينَةٍ
ship-to-ship transfer
瀬取り

ある1回の「瀬取り」(a ship-to-ship transfer)と言いたいときは、非限定単数にします。
عملية نقلٍ من سفينة إلى سفينة

ただし、これは筆者が考える用語としての「瀬取り」の適切なアラビア語訳です。問題の背景や、そもそもの用語の意味を理解していない人に対して使う場合は、より丁寧な訳(というか補助的説明)が必要になります。

それでは以下で詳しく検討していきます。


●基礎知識
日本外務省によれば、「瀬取り」とは「洋上での船舶間の物資の積替え」のことです(参考リンク)。一般的に、海上において船から船へ積み荷の移し替えを行うこと自体は国際法に違反する行為ではありません。しかし、2017年9月に採択された安保理決議2375を根拠として、北朝鮮籍船舶との瀬取りは国際法上禁止されています(2019年5月13日現在)。

北朝鮮に対しては、同国による累次の核実験やミサイル発射等を理由に、安保理決議によって経済制裁が科されてきました。特に近年は、国連加盟国から北朝鮮への石油精製品の輸出規制や、北朝鮮からの石炭輸出の禁止等をはじめとする経済制裁が強化されています。しかし、北朝鮮は「瀬取り」を駆使して規制された物資の密輸を行っています。そこで、経済制裁の実効性を確保するために北朝鮮籍船舶との「瀬取り」が禁止されるに至りました。


(2017年12月9日に撮影されたとされる、北朝鮮籍船舶 KUM UN SAN 3 が、パナマ籍船舶 KOTI とおそらく石油の「瀬取り」を行っている現場の写真。出典:米財務省報道発表

なお、北朝鮮が「瀬取り」を行って制裁により制限された物資の密輸をするためには、その相手方となる国なり企業なり個人の協力が必要であることは言うまでもありません。


●安保理決議2375における表現
アラビア語は国連公用語の一つなので、国連によって安保理決議のアラビア語版が作成されています。安保理決議2375のアラビア版における、「瀬取り」に相当する表現がそのまま使えそうであれば、採用しない手はありません。それでは、安保理決議2375の該当箇所の英文・日本語訳(外務省)・アラビア語文をそれぞれ確認します。※個人的に勉強になった各訳語にハイライトをつけています。

英文
The Security Council (......) Decides that all Member States shall prohibit their nationals, persons subject to their jurisdiction, entities incorporated in their territory or subject to their jurisdiction, and vessels flying their flag, from facilitating or engaging in ship-to-ship transfers to or from DPRK-flagged vessels of any goods or items that are being supplied, sold, or transferred to or from the DPRK

日本語訳(外務省)
安全保障理事会は、(......)全ての加盟国が、自国民、自国の管轄権に服する者、自国の領域内で設立された又は自国の管轄権に服する団体、及び自国の旗を掲げる船舶が、北朝鮮籍船舶に対して又は北朝鮮籍船舶からの、北朝鮮に対して又は北朝鮮から供給、販売又は移転されるいかなる物品又は品目の、船舶間の移転容易にする又は関与することを禁止することを決定する。

アラビア語文
إن جملس الأمن (......) يقرر أن تحظر جميع الدول الأعضاء على رعاياها والأشخاص الخاضعين لولايتها والكيانات المسجلة في إقليمها أو الخاضعة لولايتها والسفن التي ترفع علمها، تيسير نقل أي بضائع أو أصناف يجري توريدها أو بيعها أو نقلها إلى جمهورية كوريا الشعبية الديمقراطية أو منها من سفينة أو إلى سفينة تحمل علم تلك الجمهورية، وأن تحظر عليهم المشاركة في تلك العمليات

 黄色でハイライトした部分がいわゆる「瀬取り」に相当する表現となっていますが、なんとアラビア語では نقل (移転)の一語に凝縮されてしまっています。後半に من سفينة أو إلى سفينة という文言はありますが、これは「北朝鮮籍船舶に対して又は北朝鮮籍船舶からの」という部分にかかっています。このアラビア語文では、船から船への移転に解釈を限定することができないので、不十分な訳であると言えます。

安保理決議アラビア語文の表現では不十分だったので、他のソースから適切な「瀬取り」の訳を探します。


●米国務省の訳
2018年2月23日、米国政府は、「北朝鮮による核・ミサイル開発の資金源を封じるため、中国など9カ国・地域にある海運会社(27社)、船舶(28隻)、1個人の計56を独自の制裁対象に加え」ました(日本経済新聞「米、核資金封じ「最大の制裁」 対北朝鮮」)。

トランプ大統領が「過去最大の制裁」だと語ったこの制裁措置について、米財務省のサイトのNEWSページに詳細な報道発表が掲載されています(こちら)。北朝鮮が制裁逃れのため安保理決議2375で禁止された「瀬取り」を駆使して石油等の密輸入を続けていることが、証拠写真とともに説明されています。


ありがたいことに、この報道発表は米国務省によりアラビア語訳されています(こちら)。その中で、「瀬取り(ship to ship transfer)」は、عمليات النقل من سفينة إلى سفينةと訳されています。英語から直訳したと思しき表現ですが、「船舶間」の移転であることを明示しており、適切な訳かと思われます。


●更なる検討
عمليات النقل من سفينة إلى سفينة が「瀬取り」の訳として適切であるとしても、専門用語感は拭えません。報道を確認すると、アラビア語版ロイターの翻訳記事や、Al-Sharq Al-Awsatの記事等で用例はあるものの、それほど多く確認することはできません。そもそもアラビア語圏において、北朝鮮問題の重要性は、日本や米国においてのそれほど高くなく、石油や石炭の密輸を行っていることを伝える記事はあってもその具体的方法(つまり「瀬取り」)にまで言及するものは少ないです。

したがって、情報の受け取り手によっては、عمليات النقل من سفينة إلى سفينة の補助的説明を付け加えなければ用語の意味や問題の所在が伝わらない可能性があります(日本人でも、「瀬取り」とは何か、ちゃんと説明できる人はそれほど多くないように思われますが…)。

筆者の考えた文ですが、例えば以下のような説明が考えられます。


"عمليات النقل من سفينة إلى سفينة" تعني نقل الشحنات في عُرض البحر من سفينة إلى سفينة. تقوم كوريا الشمالية بتهريب النفط والفحم وغيرها من البضائع باستخدام عمليات النقل من سفينة إلى سفينة لتلتفّ على العقوبات الدولية. لذلك، يُلزم قرار مجلس الأمن 2375 جميع الدول الأعضاء في الأمم المتحدة بحظر تيسير تلك العمليات من أو إلى سفينة ترفع علم كوريا الشمالية والمشاركة فيها.

「瀬取り」とは、洋上における船舶間の積み荷の移転のことである。北朝鮮は、国際的な制裁から逃れるため、「瀬取り」を使って石油や石炭、その他の物品の密輸を行っている。そのため、安保理決議2375は、すべての国連加盟国に対し、北朝鮮籍船舶に対する又は北朝鮮籍船舶からの「瀬取り」を容易にする又は関与することの禁止を義務付けている。

(以上)